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   <title>動物まめ知識</title>
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   <subtitle>知られてるようで知られていない、動物達のまめ知識</subtitle>
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   <title>集団安全保障の仕組み　2</title>
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   <published>2012-01-19T05:33:03Z</published>
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      第二のポイントは、連盟の規約では、法破り、ルール違反をした国家に対する制裁の実施を担保するだけの実効性ある規定がなかった、ということです。


当時のアメリカの指導者の念頭には、これをなんとかしなければいけないという気持ちが強くあったというのです。


第三のポイントは、私たち日本人が深く考える必要があることなのですが、ナチス・ドイツや日本軍国主義の台頭を許したのは、民主主義諸国が警戒感をゆるめて一方的に軍縮してしまったことにある。


だから軍縮というのは、必ずしも国際平和と安全を確保するうえで無条件に正当化されるものではない。


むしろ軍縮は全体の国際環境・状況のなかでの位置づけが必要である。


・・・したがって、戦後の国際関係において重要な役割を営むことが予定されていた国連は、にらみを利かせるに足るだけの実力を持たなければいけないという思想であります。


そういうことから出てくる第四のポイントは、国連は必要な場合に備えて制裁措置を持つ必要があるということなのです。


これが、集団安全保障という考え方につながってきます。

      
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   <title>集団安全保障の仕組み</title>
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   <published>2011-12-19T05:32:27Z</published>
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   <summary>私たちが憲章に接するときは、原則性と柔軟性を併せ持って臨む必要があることが理解さ...</summary>
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      私たちが憲章に接するときは、原則性と柔軟性を併せ持って臨む必要があることが理解されるのではないでしょうか。


さて、国連の活動のもっとも中心的なものは、いうまでもなく、国際の平和と安全を維持するための機能です。


・・・ここではまず、全体としての仕組みについて理解を深めるために、国連創設に中心的役割を果たしたアメリカがどういう構想を持っていたか・・・


そしてその構想は現実の憲章の規定が生まれるなかでどのように生かされたかという点を見ておきましょう。


ある研究者の分析の結果を借りますと、当時のアメリカの認識は、だいたい4つのポイントがあったといわれます。


まず最初のポイントは、第二次世界大戦が終ってからの世界の軍事力は、ひと握りの大国の手に集中するであろうという認識があったということです。


したがってアメリカとしては、そういう現実から出発したのだということです。



      
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   <title>国連のはじまり　2</title>
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   <published>2011-11-19T05:31:55Z</published>
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      5大国のなかで、積極的に決議に賛成するわけではないが、しかし強いて反対する気持ちもないような場合があるということになって、実際の慣行の積み重ねを通じて、棄権してもいいということになったのです。


・・・日本の憲法も、硬質憲法といわれるぐらいに、改正が行いにくい仕組みになっています。


そのために、「自衛隊は軍隊ではないから違憲の存在ではない」というような、およそ国際的に通用しないいわゆる「解釈改憲」みたいなことがまかり通るようになりました。


それと似たような現象が国連憲章の場合にもあるのです。


・・・というのは、憲章の第18章にはその改正の手続きを定めていますが、それによりますと、憲章の改正は「(加盟)国の3分の2の多数で採択され、且つ、安全保障理事会のすべての常任理事国を含む国際連合加盟国の3分の2によって各自の憲法上の手続に従って批准された時に」効力が生まれることになっています(第108条)。


・・・こうして、もともと解釈の幅が大きく、また、改正が難しいので便法を講じて抜け道を捜し出す必要も多い、というような事情が憲章については常に起こっているのです。


      
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   <title>国連のはじまり</title>
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   <published>2011-10-19T04:30:55Z</published>
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   <summary>重大な問題について、安全保障理事会が大国間の対立で機能できないとき・・・ 総会が...</summary>
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      重大な問題について、安全保障理事会が大国間の対立で機能できないとき・・・


総会が勧告する権限のあることが認められているのですが、これなどは、第12条1項の関係規定などを見る限りでは、果たして総会にそのような権限を認める趣旨なのか、かなり議論の余地があるところです。


湾岸戦争に際して学者レベルで問題になったのは、安保理常任理事国が棄権したとき、決議は有効に成立するかということでした。


とくにアメリカなどのいわゆる多国籍軍のイラクに対する軍事作戦行動の根拠となった安保理決議678号(90年11月29日採択)に中国が棄権したことに関して・・・


リチャード・フォークという学者が、「安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる」(第27条3項)とある以上、この決議は有効に成立していないはずだと主張しました。


このフォークの主張は、条文解釈としては正しいものです。


常任理事国の間でも、国連創設当初の理解はそうでした。


・・・つまり、常任理事国全員が積極的に賛成しなければ、決議は有効に成立しないということです。



      
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   <title>日本が円建て輸出ができないのはなぜか　3</title>
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   <published>2011-09-25T06:53:32Z</published>
   <updated>2011-09-25T21:51:04Z</updated>
   
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      円の国際通貨性どころか、鎖国主義そのものの中に閉じ込めてきたのです。


・・・以上のようなことが、円の国際通貨としての機能を欠陥せしめてきた原因の一つでした。


したがって、為替変動のリスクを減らすために、円決済での輸出を増していくには、円の国際通貨性を高めることが大きな要件になるのです。


また通貨に関するリスクを避けるためには、日本は、輸出相手国をもっと多様化し、量的にもバランスをとることが必要なのです。


日本の輸出量の4割近くがアメリカです。うなかたよったあり方は問題なのです。


なぜならアメリカへの輸出は、ドル建てにならざるを得ないために、円とドルの為替変動によるリスクもそれだけ大きくならざるを得ないからである現実のビジネスでは、輸出業者と輸入業者が、応分のリスク負担をしていますが)。


輸出が特定の国にかたよりがあるのは、貿易立国日本にとって安全保障上、よろしくないのです。


・・・これは通貨の面でも同じであって、そのリスクを小さくするためにも、輸出は特定の国にかたよることなく、多くの国に分散していた方がベターなのです。


さもなければ、西ドイツのマルクのように、日本も円の国際通貨としての地位を高め、他国の通貨に依るところを少なくし、円建て輸出を増やしていくべきでしょう。


      
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   <title>日本が円建て輸出ができないのはなぜか　2</title>
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   <published>2011-08-25T06:52:24Z</published>
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   <summary>「マルクははじめは弱い通貨でしたが、次第にその競争の中で国際的に重要な通貨に成長...</summary>
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      「マルクははじめは弱い通貨でしたが、次第にその競争の中で国際的に重要な通貨に成長していったのです」


副総裁が指摘した3点を日本との比較において検べると次のようになるでしょう。


第一の点、戦後すぐの通貨改革では、西ドイツはインフレを完全に封じ込め、以降国民の消費生活にウエイトをおいた物価を中心にした経済政策を展開し、国民に通貨の信頼性を与えて来ました。


それに対し、日本はインフレを克服できなかったため、円を信頼できる通貨になかなかできなかったし、その結果、物価も蔑ろにされてきたのです。


第二の点、西ドイツは、貿易赤字国から黒字国になった時点(1952年)で、いろいろな自由化を進める一方、外貨の黒字から国内にインフレーションの生じる恐れがでてくるとそれを防ぐために、ドイツ・マルクの切り上げ(第一次マルク切り上げは1961年)など積極的に自らの意志で外貨政策を推し進めてきました。


それに対して、赤字国から黒字国に定着した1960年代半ばごろの日本が取っていた行動は、依然として赤字国そのもの。


外貨(具体的にはドル)を後生大事にするというだけの、赤字国精神の遺産である国為替管理法が、世界の動きと逆向きに幅を利かせていたのでした。


・・・ましてや世界を意識下に入れた通貨政策など存在するはずはなかったのです。


第三の点、日本・西ドイツとは違って、円を国際通貨との競争にさらす勇気などは、さらさら持てなかったのです。


アメリカ、ヨーロッパ諸国からの自由化・規制緩和など要求にもかかわらず、日本の当局は、金融・資本の自由化をひたすら遅らせ、金融機関を幼な子のごとく保護・監督・規制してきたのでした。


      
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   <title>日本が円建て輸出ができないのはなぜか</title>
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   <published>2011-07-25T06:51:00Z</published>
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      一国だけの通貨に依存することは、通貨面でも危険率が高いことが1985年秋以降のドル相場の動きで実証されました。


輸出入に伴って支払い決済も通貨面においても、分散することが必要です。


西ドイツが輸出決済の80パーセントを自国通貨で行っているのに対し、日本は円建てはわずか35パーセントにすぎない・・・。


この事実は、マルクが円よりも国際性が高い、すなわち、通貨として世界から信用されているという証です。


がしかし、世界ナンバー・ツーの経済大国である日本は、なぜ、西ドイツができるのに、できないのでしょうか？


あるいはできなかったのでしょう。


・・・この問いに対1しては、西ドイツ連邦銀行ヘルムート副総裁がNHK取材班のインタビューの中で、国際通貨としてのマルクについて言及したくだりがすべてを説明していると思われます。


「ドイツマルクが国際通貨として通用するに至った理由として、3つの重要な点をあげることができると思います。


まず、1948年に誕生した新ドイツマルクを信頼できる安定したものにできたことです。


第二の点は、西ドイツが貿易赤字国から黒字国に転じたということです。


そして第三の点は、この点が恐らく最も重要なのですが、わたしたちが早い時期にドイツマルクを強力な国際通貨であったドルや英国ポンドとの競争にさらす勇気を持っていたという点です。」



      
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   <title>自国通貨への自信　2</title>
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   <published>2011-06-25T06:49:22Z</published>
   <updated>2011-06-30T21:51:04Z</updated>
   
   <summary>「輸出に伴う危険を少しでもなくそうとすれば、自分の国の通貨を信頼するのがいちばん...</summary>
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      「輸出に伴う危険を少しでもなくそうとすれば、自分の国の通貨を信頼するのがいちばんです」


・・・と社長は沈着冷静に取材班に話してくれました。


氏は、自国通貨に絶大の信頼をおいています。


このことは、とりも直さず、国自体の通貨政策(通貨の安定すなわち物価の安定)が信頼されていることの何よりもの証拠なのです。


・・・輸出に伴う危険性は、氏がいう政治的なものだけでなく、当然、経済的側面にもあります。


日本の輸出企業は、1985年9月以来円高ドル安(というよりむしろ全通貨に対するドル安という表現の方がふさわしいが)が生み出す為替差損というリスクを西ドイツのそれよりも大幅に負ってきたのです。


それは日本の輸出決済が、西ドイツよりも5倍以上の比率で、ドルによってされてきたからです。


日本の企業が、西ドイツなみにドルによる輸出決済を9・5パーセント(この決済額比率は、西ドイツのアメリカへの輸出額比率10・3パーセントとほぼ同じ)程度で行っているなら、そのリスクも6分の1ぐらいになっていたでしょう。


あるいは円建てによる決済の割合を高めていたならば、その危険性はより分散されていたでしょう。


・・・極端ないい方をすれば、自国通貨・マルクを絶対的に信頼する西ドイツ。


そして、自国通貨・円よりも、他国通貨・ドルに相対的に依存する日本、といえるのではないでしょうか。


      
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   <title>自国通貨への自信</title>
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   <published>2011-05-25T06:48:04Z</published>
   <updated>2011-05-25T21:50:34Z</updated>
   
   <summary>ドルは日本および西ドイツにとっては他国通貨です。 ところが日本の場合、輸出代金の...</summary>
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      ドルは日本および西ドイツにとっては他国通貨です。


ところが日本の場合、輸出代金の54・3パーセント(1986年)はドルで受け取っているのに対し、西ドイツの場合は、わずか9・5パーセントです。


なぜ同じ輸出というパフォーマンス(行為)をしながら、結果でこうも違ってくるのでしょうか？


この疑問に対する一番わかり易い解答は、西ドイツMWB社の社長が、NHK取材班のインタビューに答えた内容です。


「製品を輸出しようとしますと、輸出相手国数だけ通貨があります。


わが社は取り引きで特定の国だけに依存していることはありませんし、ECが最大の得意先なんですね。


その場合にも、代金決済は自国通貨・・・ドイツマルクでということになります。


マルク建てで輸出を行うもう一つの理由は、その方が安全だからです。


そもそも輸出には危険がつきものです。


政治に左右される場合もあります。」

      
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   <title>荒地を沃野に変えるもの　3</title>
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   <published>2011-04-11T03:27:36Z</published>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://low-voltage-fuses.biz/">
      <![CDATA[朝まだ暗い4時に起きて乳搾りを手伝い、2マイル歩いて一教室しかない学校に通い、午後戻ってからも雑用を手伝っていました。


もし放課後友達と遊びほうけて帰りが遅れれば、父親は容赦なく彼を叱りました。


この子は家ではなくてはならない存在でした。


夏に時たま灌概用水路で一泳ぎするとか、日曜学校で賛美歌を歌ったりお祈りをするとか、夜母親の弾くピアノに合わせて歌ったりするほかは、彼は幼年時代をその後の歳月と同様に仕事に明け暮れて過ごしたのです。


日常の仕事の合間の気晴らしは狩猟でした。


この土地に来た時から、シンプロット一家は食糧のかなりの部分を狩猟や魚釣りでまかなっていました。


父親は幼い頃からジャックに銃の扱い方をしっかりと教えこんでいます。


少年が幼い頃最も熱中した楽しみは<a href="http://www.rakuten.co.jp/auc-e-seedlings/" target="_blank">花 種</a>の園芸農園のまわりやスネーク川のほとりでカモやワタオウサギを撃つことでした。


後年さらに奥深い山中でヘラジカやその他の大型の獲物を追い、今も語り草として伝えられる狩猟の達人となりました。


しかし、チャールズ・リチャード・シンプロットは、いつしかこの過酷な農場の生活にうんざりして、アイダホの平野を去る決心をしました。


シンプロット家はジャック、マートル、ペギー、そして弟のボブと、4人の子供を抱える家族になっていました。

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   <title>荒地を沃野に変えるもの　2</title>
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   <published>2011-03-11T04:26:44Z</published>
   <updated>2011-03-11T22:50:27Z</updated>
   
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://low-voltage-fuses.biz/">
      <![CDATA[シンプロットはその時まで実りの少ない土地を乾式農法で耕さなければならなかったのです。


それでも、彼らの敵であるはずの<a href="http://www.rakuten.co.jp/auc-e-seedlings/" target="_blank">野菜 種</a>、ヤマヨモギが大事な砂地をアイダホの風と雪から守ってくれました。


来た当時には麦芽色だった砂はやがて灌概によってミルク・チョコレート色の肥沃な土となり、それから70年後の今もJ・R・シンプロットがしわだらけの指を突込んでは感触を楽しんでいるほどです。


ヤマヨモギと岩石を取除くと、スネーク峡谷の乾いた土壌は有名な細長い黄褐色のバーバンク.ポテトの豊かな産地に一変しました。


やがてシンプロット一家は自分たちの食糧や牛、羊、豚の飼料としてジャガイモを収穫するようになりました。


6歳になる頃には、ジャックも畑でよく働き、酪農の仕事でも忙しい朝の雑用を手伝うようになっていました。


写真を見ると、彼は布製の帽子をかぶり、ぶかぶかのつなぎの服を着て、幾サイズも大きい作業靴をはいた、幸せそうな、そばかすだらけの少年に写っています。


その姿はノーマン・ロックウェルの描くハックルベリー・フィンそっくりです。


父親はしつけの厳しい人のようでしたが、この少年にはひどく折濫されたり、こき使われたりしたような様子はありません。


しかしジャックは人生はつらい義務から成立っているのだということをすでに知っていました。

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   <title>荒地を沃野に変えるもの</title>
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   <published>2011-02-11T04:25:47Z</published>
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      ジャックと呼ばれ、また後年この辺一帯でJ・ROとして有名になるこの赤ん坊がはじめてよく響く声を張上げ、丈夫な手足を動かしたのは、荒野のこの一部屋きりの小屋のなかでした。


はじめての夏の終りに、父親は家畜小屋を建増ししました。


ジャックが2歳になる頃には、一家はヤマヨモギを120工ーカー切り払い、野菜や大麦や干し草など、かなりの収穫をあげていました。


彼らの開拓方法は骨が折れはしたが効果的でした。


ヤマヨモギを焼払った後、藪をならし、馬に引かせた鉄のレールで地面を平らにします。


それからくわで根を〈掘り起し〉、手で岩を引き出す。


最後に馬の後について、乾いた土の上をさまざまな農耕機械を動かして、土を耕し、ならし、苗を植えるのです。


当初、連邦政府の灌慨計画事業から水を供給してもらえるものと期待していましたが、しかしその援助は2年後の1910年まで受けることができなかったのです。


      
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   <title>見失われた川</title>
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   <updated>2011-06-13T05:46:14Z</updated>
   
   <summary>〈見失われた川〉の支流はイエローストーンの水源から地下を60マイル流れる間に暖め...</summary>
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      <![CDATA[〈見失われた川〉の支流はイエローストーンの水源から地下を60マイル流れる間に暖められて、水藻が繁茂していました。


それは、遠い昔に失われた肥沃さを苛立たしげに象徴するかのような茶と黒と灰色の荒涼とした不毛の地を縫って流れるカーキ色のスープでした。


荷馬車をきしませながら険しい斜面を這うように降りて、シンプロットはようやく下の平地に着きました。


川のほとりにひとまずテントを建て、友人とともに水と寝泊りの場所の確保という最初の厄介な仕事にとりかかりました。


・・・機械を使わずにおよそ80フィートの深さまで井戸を掘らねばならなかったのです。


丸太と厚い草屋根の小屋も建てなければならなかったのです。<a style="color:#5D5D5D; text-decoration:none; font-weight:normal;" href="http://onkyo.blog.so-net.ne.jp/" target="_blank">河成鎮</a>次氏によると、こうした難儀な仕事を終え、ヤマヨモギのなかで開墾が始まりました。


数週間後、ミセス・シンプロットがアイオワから汽車でやってきました。


腕にはジョン・リチャードと名付けられた生まれたぼかりの男の子を抱いていました。

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   <title>「労働」の領域</title>
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   <published>2010-12-08T01:40:49Z</published>
   <updated>2010-12-11T22:50:45Z</updated>
   
   <summary>OpenSSOシステムの時代、情報化の時代、知識産業の時代・・・。 これが今日の...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://openstandia.jp/services/opensso/index.html" target="_blank">OpenSSO</a>システムの時代、情報化の時代、知識産業の時代・・・。


これが今日のジャーナリズムのかけ声ですね。


その実体は何であるか、例によって現実におこりつつある変化を、いくつかの例についてみることから、手がかりをさぐっていきましょう。


現代の神話の主人公が電子計算機であることはまちがいのないところでしょう。


電子計箕機はしばしばゼウスのごとき万能の神として語られています。


しかし、錯覚におちいってはいけません。


計算機の万能も、すぐれた可能性も、それを仮にみとめるとしても、それは計算機を道具として用いる人にとってのものです。


わたしたちがいま関心の対象としている「労働」の領域はむしろ、計算機に道具としての性能を発揮させるために働く人人の問題により多く重なっています。


・・・その意味では、計算機ほど、機械を使う人と機械に仕える人との対照をきわだって示したものはないのです。


機械に仕える人々の運命にどのような変化が生じるのかをみるためには、まず、人間のやっていた仕事がどのようにして計算機に移しかえられるかをみなければなりません。


例えば左庫管理です。


在庫管理は多くの企業で給与計算の次くらいには計算機化される、非常に計算機にのりやすい業務です。


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   <title>農業の機械化について　9</title>
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   <published>2010-12-04T05:17:09Z</published>
   <updated>2010-12-11T22:50:24Z</updated>
   
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      農業機械の安全性の確保を図るため、49年度からは農業機械化促進法に基づく型式検査の際に安全性のチェックも併せ行っています。


また、51年度からは主要な農業機械について安全鑑定を実施しています。


それとともに、国の助成により導入される農業機械の選定に当っては、これらの検査、鑑定結果が活用されるよう指導を行っているのです。


農業機械の普及の進展、農業所得の伸び悩み等から、中古農業機械活用の志向が強まりつつあります。


しかし、現在のところ、中古農業機械の流通は、新機械の販売の際の下取り機械を処理する形で行われることが多く、中古市揚が成立をみていません。


また、農家の側にも、整備状況アフターサービス等に不安があるでしょう。


このような現状にかんがみ、中古農業機械市場の形成を促進するため、中古農業機械展示施設の設置等を行う中古農業機械整備流通実験事業を54年度から開始。


あわせて整備基準、下取り基準等中古農業機械の市場形成のための諸条件の整備に努めています。


      
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